3▲がん 高崎市の綿貫観音山古墳(P.49)は、古墳時代後期の6世紀後半に築かれた墳丘全長97m、高さ9.6mの大型前方後円墳だ。平らだった土地に造られているので、巨大な墳丘のすべてが人工的に造られたわけだ。 後円部の中心には、南西方向に入口を開けた横穴式の石室がある。生前に古墳を造らせた豪族本人が葬られた場所で、石室の全長は約12.6m、最大幅約4mもある。石室の天井部に使用された最も大きな石は22トンもあり、それ以外にも10トンを超える石が2つ使用されている。群馬県地域では最大級の石室だ。 石室の側面の壁を造るのに積み上げられた石は、6世紀前半に榛名山が大噴火したときに噴出した角閃石安山岩という石で、これを四角くブロック状に加工して積み上げている。火山の噴火によって形成されたこの石は柔らかく加工しやすいので選ばれたのだろう。 ところが、綿貫観音山古墳の周囲には、このような大きな石はまったく見あたらない。 利根川まで行けば、榛名山から利根川に流れ出ている石を手に入れることが可能だ。現在の利根川は、綿貫観音山古墳の東方約2kmのところを流れているが、当時の利根川(現・広瀬川)は、現在の利根川よりさらに東側を流れていたと考えられており、古墳から最も近い場所からでも、数km以上の距離を運んできたことになる。現在の広瀬川周辺から綿貫観音山古墳まで、石を運ぶのに適当な川はないので、おそらく陸路をはるばる運んできたのだと考えられる。わたぬきかんのんやまふんきゅうかべ 一方、石室の天井に使われた10〜22トンもある巨石は牛伏砂岩だ。古墳時代にはまだ岩層から石を直接切り出してくる技術はなかったと考えられているので、岩層から崩れ落ちた石を運んできたと考えられる。これだけ大きなものは、最近では、藤岡市西部の鮎川で採取された可能性が強くなっている。もちろん、当時はパワーショベルやクレーン、大型トラックもなかったので、大変な労力を要したことは間違いない。 さらに、綿貫観音山古墳より少し後の時期に造られた八幡観音塚古墳(P.50)では、なんと約60トンもの巨石が使われた。壁も含め、ほとんどの石材に巨石が使用されており、ヤマト王権からもたらされた当時最高峰の技術を持った集団が関わったと考えられる。うしぶせ さ がんや わたかんのんづかやわたかんのんづかしゅらしゅら第1章 古墳県ぐんまを探検する成人60kg0710トン▲ 綿貫観音山古墳石室(高崎市)わたぬきかんのんやまごうぞくほうむかくせんせきあんざん▲ 10トンの重さを例えるイラスト▲ 修羅で巨石を運ぶ様子(大阪府)▲ 八幡観音塚古墳石室(高崎市) 発掘当時の修羅(大阪府)大きな石はどこから運んだか60トンもの石を運搬!?
元のページ ../index.html#10