【 前方後円墳の設計図 】 前方後円墳は、ヤマト王権の象徴であり、その分布は【長持形石棺】 長持形石棺は、畿内では「王者の石棺」といわれ、大王級古代の鏡は、姿や顔を映すというより、光を反射させて人々を惹きつける道具だったんだよ!ながもちがたせっかん 古墳時代に「上毛野国」と呼ばれた現在の群馬県は、東国文化の中心地として非常に繁栄していた。その理由は第1章−1( P.3〜)に詳しく出ているが、平野部の開発と大規模な農業経営を行うために必要な、自然環境と豊富な資源を持っていたことが大きな要因と考えられる。 そうした特徴を最大限に活かして、地域をさらに大きく発展させようとした上毛野国の人々と、東日本に勢力を広げるための強力な拠点を求めていたヤマト王権との利害関係が一致したことが、両者の親密な関係を生み出したと考えられる。 3〜4世紀の豪族にとって、そのランクを決める最上級のアイテムは「鏡」であった。「三角縁神獣鏡」は、ヤマト王権との強い絆の証として各地の豪族に配布された鏡の一つと考えられている。東日本からは17枚しか出土していない中、群馬県だけで12枚も出土している。代表的な例は前橋天神山古墳( P.34)で、4世紀の築造当時では東日本最大級の前方後円墳である。そこに眠るのは、東日本屈指の豪族であろう。しかしそれだけでなく、富岡市の北山茶臼山古墳や玉村町の川井稲荷山古墳など、中型古墳でも出土しているところに、ヤマト王権がいかに上毛野国を重視して鏡を与えていたかがうかがえる。かみつけぬのくにごうぞくあかしまえばしてんじんやまかわ い いなり やまさんかくぶちしんじゅうきょうきたやまちゃうすやまヤマト王権の勢力の広がりを示すとされている。形は、最初は細く低かった前方部が徐々に大きくなっていく特徴がある。各地の代表的な大型前方後円墳は、畿内の大王の墓と思われる大型前方後円墳と相似形(形は同じで大きさが違う)であり、同じ設計図を共有していたことがこれまでの研究で推定されるようになった。 群馬県でも、4世紀では東日本最大の浅間山古墳が奈良県の佐紀陵山古墳と、5世紀の東日本最大の太田天神山古墳( P.37)は全国第2位の大きさの誉田御廟山古墳(応神陵)と、6世紀では全国最大級の七輿山古墳( P.46)は大阪府の今城塚古墳というように、設計図を共有する古墳があることが指摘されている。の古墳でしか見られないものである。 そんな石棺が、太田天神山古墳とお富士山古墳(P.38)で使われているのだ。石材は地元産を使っているが、石を削って形を作る作業は難しいため、ヤマト王権が専門の工人を特別に派遣したものと思われる。 ちなみにこの二つの古墳は、相似形である。さきみさざきやまりょういましろづかけずこうじんき ないそう じ けいせんげんやまおおたてんじんやまこんだごびょうやまななこしやまふ じ やまおうじん第1章 古墳県ぐんまを探検する09▲ 三角縁神獣鏡 (玉村町、川井稲荷山古墳)▲ 長持形石棺(伊勢崎市、お富士山古墳)▲ 浅間山古墳(高崎市)最上級のアイテムは鏡古墳づくりに見るヤマト王権との関係ヤマト王権との強い結びつき5
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