赤いっ!「大国」はより上の「上国」、「中国」、「下国」最上級国なんだ。【横穴式石室の技術】 6世紀になると安中市の簗瀬二子塚古墳( P.44)や前橋市の前二子古墳( P.45)などで横穴式石室が造られるようになる。 それまでは古墳の頂上に遺体を埋葬する竪穴式の施設だったが、4世紀末に朝鮮半島から横穴式石室が伝わり、まず畿内と北九州で造られた。上毛野国は東日本で最も早く、他の地域より約50年も早く造られている。このことから、上毛野国をどれだけ重視していたかがわかる。 さらに重要な技術は、天井にかける巨大石材の運搬である。八幡観音塚古墳( P.50 )の推定60トンの天井石をはじめ、数十トンもする巨石を修羅( P.7 )で運ぶことは容易ではなく、ヤマト王権による技術指導を特別に受けられる関係にあったと想像できる。まえふた ご やわたかんのんづかやなせふた ご づかしゅら 7世紀後半の宝塔山古墳( P.54)は、この時期の群馬県地域において最上位の古墳である。一辺約60mの方墳で、石室内に家形石棺が置かれている。この石棺の脚部に「格狭間」という仏教建築等に見られる加工がなされている。 当時、畿内ではすでに権威の象徴は古墳づくりよりも寺院建築になっていた。ヤマト王権が新たな思想として広めようとした仏教を、上毛野国の最有力者が古墳の中に表現したことは、時代の変換を知る上で重要である。いち早く仏教を取り入れたことをこのように形として残している地域は少なく、その一つが群馬県である。このことからも、ヤマト王権との関係の深さを知ることができる。 奈良時代になっても、七重の塔がそびえる壮大な国分寺(P.59)や八角形の特別な倉庫(P.38)を建てたりするなど、全国68カ国のうちの13国しかない「大国」となって繁栄した「上野国」。古墳時代に引き続いて朝廷との強いつながりをもち、最先端の文化や技術を積極的に取り込こう ざ まほうとうざんいえがたせっかんこうずけのくにんで東国文化をリードしたことができる。大豪族の姿を、そこに見るたいこく【簗瀬二子塚古墳石室(安中市)】【前二子古墳石室(前橋市)】【八幡観音塚古墳石室(高崎市)】第1章 古墳県ぐんまを探検する10▲ 家形石棺(前橋市、宝塔山古墳) ※円内が「格狭間」加工仏教の影響古墳時代のあとも
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