わ倭か や加耶6鞍鐙今から1,600年くらい前だね!宋 (南朝)(おもがい)(かがみいた)(しりがい)(ぎょうよう)(あぶみ) 3〜4世紀を代表する大陸諸国との交流の品は、「鏡」である。高崎市の柴崎蟹沢古墳などから、卑弥呼が中国から賜ったという説もある三角縁神獣鏡(P.9)が出土している。 その後、4世紀後半頃から中国や朝鮮半島で争いが増えたため、日本に“渡来人”が移り住んだり、日本人が大陸に行ったりしたことなどで、さまざまな文物(品物)が日本にもたらされるようになった。 古墳から出土したさまざまな品物を見ると、当時の東アジア世界(中国大陸・朝鮮半島)と群馬との関係を知ることができる。 5世紀になると、優れた金・銀・金銅製の工芸品や装飾品、鉄製の甲・冑などの武具、馬具、須恵器などが日本にもたらされるとともに、それらを作る高度な技術も入ってきた。 これらは、朝鮮半島で作られたものを渡来人が持ってきたもののほかに、渡来人によって日本国内で作られたものもある。中でも、高度な技術を要する鍛冶や金工などは、ヤマト王権の管理の下で生産が行われた。そこで作られた甲や冑は、ヤマト王権に認められ、親密な関係になった有力豪族のみが手にすることができた貴重品である。群馬県内の古墳からも、それらが数多く出土している。しばさきかにさわたまわとらいじんほく ぎほくちょう北魏 (北朝)そうなんちょうよろいかぶとひ み こさんかくぶちしんじゅうきょうこう く り高句麗しらぎ新羅くだら百済すえきかじ 高崎市の剣崎長瀞西遺跡(5世紀前半〜中頃)から出土した金製の耳飾りは、朝鮮半島南部(加耶地域)を中心に見られる形で、渡来人が身に着けてきたものと考えられている。 高崎市箕郷町の下芝谷ツ古墳(5世紀後半)からは、全国で20例ほどしかない貴重な金銅製の飾履(朝鮮半島で王の埋葬の時に使う飾りのついたクツ)が出土した。 太田市の鶴山古墳(5世紀中頃)から出土した鉄製の甲や冑は、薄い鉄板を鉄の鋲で留め合わせている。このように、鉄板を薄く伸ばしたり、折り曲げたりして、鉄を自由に形づくる高度な加工技術は、鉄を作る製鉄技術とは別に、5世紀に日本にもたらされていた。 馬は4世紀末から5世紀初めごろに朝鮮半島から伝えられた。同時に、乗馬の風習も伝わった。この後、馬を操るための轡や鐙、鞍などさまざまな馬具が古墳に副葬されるようになる。最初のころ使われた馬具は加耶地域に似たものが多く、実用性を重視した簡素な作りのものが多かった。甘楽町の西大山遺跡(5世紀後半)では、そうしたものと考えられる轡が発見されている。くつわあぶみくらけんざきながとろにしかやしもしば や つしょくりつるやまびょうにしおおやまあやつくつわ面繋引手鏡板辻金具手綱雲珠尻繋杏葉泥障(あおり)第1章 古墳県ぐんまを探検する11▲ 5世紀の東アジア▲ 甲冑(太田市、鶴山古墳)▲ 金製耳飾り(高崎市、剣崎長■西遺跡)▲ 飾履(高崎市、下芝谷ツ古墳)▲ 轡(甘楽町、西大山遺跡)▲ 馬形埴輪の馬具海を渡ってきた人・物・文化渡来人がもたらしたもの
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