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他にどんなものがきたんだろう?伝わってのんづかてつかぶと 5世紀後半以降、日本国内で金銅製(銅に金メッキをしたものや鉄を金銅板で覆ったものなど)の馬具が多く作られるようになる。 高崎市の綿貫観音山古墳(P.49)や八幡観音塚古墳(P.50)、前橋市の山王金冠塚古墳(P.51)など、6世紀後半以降に造られた古墳からは、金銅製品や金銀で飾られた馬具など、光り輝く副葬品が多数発見された。 八幡観音塚古墳出土の大刀は、銀の板で飾られた銀装圭頭大刀といい、実用性よりも装飾性、見た目の素晴らしさが優先されたものとなっている。また、仏教の光背(仏の心身から放たれる光を表したもの)に形の似た透かし文様のある金銅製杏葉が発見されている。 これらは当時最高水準の工芸技術であり、金銀に輝く馬具や大刀をもつことが権威の象徴とされた。 綿貫観音山古墳からは、王が身につけたであろう金銅鈴付大帯や鉄製の鉄冑(突起付冑)が出土している。馬具は、金銅製の板を巧みに切り抜いた見事な透かし文様の杏葉がある。また、花びらのような飾り(歩揺)のついた金銅製の飾金具が77個も出土している。これらは、新羅の馬具と共通する特徴をもっている。わたぬきかんのんやまた ちぎんそうけいとうぎょうようこんどうすずつきおおおびかざりかなぐしら ぎや わたかんさんのうきんかんづかこうはいほ ようてつかぶと これらの大型前方後円墳以外にも、中〜小型の古墳からも大陸諸国との交流を示す副葬品などが見られる。 前橋市の山王金冠塚古墳から出土した金銅製冠は全体の形がよくわかる全国でも数少ないものの一つだ。この冠とよく似たものが、韓国の慶尚南道にある梁山夫婦塚古墳から出土している。 玉村町の小泉長塚1号古墳から発見された刀は、先端の丸い輪の中に鳳凰(中国の想像上の鳥)がデザインされていた。日本国内には同じような刀がないことから、朝鮮半島で作られたものと考えられている。 また、伊勢崎市にある多田山古墳群の12号墳から出土した「唐三彩」の陶枕(箱形の焼き物)も、 聖徳太子や蘇我氏は、6世紀中頃に大陸から伝えられた仏教を広めるとともに、政治のしくみや学問を積極的に取り入れた。7世紀には「大化の改新」が起こり、新しい国づくりが進められた。8世紀には唐にならって、法律である「大宝律令」(701年)や「平城京」(710年)がつくられた。これらには、多くの渡来人が関与したといわれている。 群馬県には、この頃の国の地方行政や仏教の広まりの様子を知る貴重な手がかりとなる「上野三碑」( P.56)が残っている。これらの石碑にも、群馬に来た渡来人の文化や技術が大きく関わっていたと考えられている。しょうとくたい しけいしょうなんどうこいずみながつかほうおうた だ やまとうさんさいそ  が古代中国の王侯貴族の愛好品が持ち込まれたものだ。 この陶枕は、副葬品ではなく、残された人が亡くなった人を供養する際に使ったものと考えられている。りょうざん めおと づかとうちんこうずけさんぴ第1章 古墳県ぐんまを探検する▲ 金銅鈴付大帯(高崎市、綿貫観音山古墳)▲ 金銅心葉形杏葉(高崎市、綿貫観音山古墳)金銅歩揺付飾金具(高崎市、綿貫観音山古墳)▶12▲ 銀装圭頭大刀(高崎市、 八幡観音塚古墳)▲ 心葉形透かし彫り杏葉 (高崎市、八幡観音塚古墳)▲ 鉄冑(突起付冑)(高崎市、綿貫観音山古墳)▲ 陶枕(伊勢崎市、多田山12号墳)▲ 金銅製大刀柄頭 (玉村町、  小泉長塚1号古墳)光り輝く金工品地域に浸透する大陸文化律令国家の成立

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