5きしもふ どうやま 群馬県内で埴輪作りの大きな拠点があったと考えられるのは、藤岡市と太田市だ。埴輪は古くは野焼きで焼かれていたが、5世紀前半になると須恵器のように専門の工人たちによって窯で焼かれるようになってきた。埴輪専門の窯で焼かれるようになったことで、大量生産が可能になった。 高崎市の保渡田古墳群(P.39 )には、藤岡の窯で焼かれた埴輪が多く用いられていたことが分かっている。より古い高崎市の不動山古墳では、埴輪の形や作り方がふぞろいで、特定の産地からまとまって埴輪が供給されたわけではないことがわかる。このことから、藤岡市にあった埴ちくぞうけい輪の生産拠点は、保渡田八幡塚古墳(P.39)の築造を契機に本格的に稼働したのではないかと考えられている。これ以降、藤岡産の埴輪は、藤岡地域を中心に、富岡・安中から前橋・高崎にいたる広い範囲に供給されていた。 6世紀前半に造られた前橋市の中二子古墳(P.45)では、形象埴輪のほとんどは藤岡産の埴輪で占められているが、使用された埴輪の大多数を占める円筒埴輪は必ずしも藤岡産のものに限らない。精巧な形象埴輪のみに藤岡産「ブランド」が選ばれて使われたのだろう。かまほ ど た はちまんづかほ ど た か どうす え きほんごう はに わ かまあとなかふた ごえんとうせいこうけいしょう▲ 土師器 (高崎市、下芝五反田遺跡)▲ 須恵器 (伊勢崎市、下渕名遺跡)に たはじきあながまち みつすえきしもしば ご たん だしもふち な第2章 日本一の埴輪王国ぐんまを探検する21▲ 本郷埴輪窯址(藤岡市)▲ 動物埴輪:復元 (高崎市、保渡田八幡塚古墳)◀ 人物埴輪:復元 (高崎市、保渡田八幡塚古墳)【古墳時代の焼き物の器】の巻 古墳時代の遺跡からは、生活の身近な道具である土器も多く出土する。 土器は食器や煮炊きの道具として、また貯蔵などにも使用された。古墳時代には、弥生時代からの流れをひく土師器のほかに、新たに須恵器が登場する。 土師器は、700〜900℃で焼かれ、熱に強いが長期間液体を入れておくと漏れてくる。 一方、須恵器は、ろくろできちんと形を整え、窖窯で1,000℃以上の還元炎で焼くので、固く緻密に焼きあがっており、液体を長期間入れていても漏れるようなことはない。 固くしっかりとした器である須恵器の登場によって、食料の貯蔵もいっそう便利になったことだろう。 須恵器を作る技術は朝鮮半島からもたらされた。古墳時代には、朝鮮半島や中国大陸からさまざまな技術や文物が日本に伝えられた。埴輪はどこで作られたのか埴輪が作られた場所
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