1馬の飼育や生産の先進技術を持った2馬の飼育に適した土地が広がっていた 群馬県内で出土した馬形埴輪は450例以上といわれ、全国的に見ても非常に豊富な数量を誇る。5世紀中頃の人物・動物埴輪の登場から6世紀末まで、人物埴輪の横には、馬の埴輪が置かれることが多かった。ほかの動物と比較しても馬の埴輪は圧倒的に多く、その数は動物埴輪全体の90%以上を占める。ではなぜ、馬の埴輪はこれほど多く作られたのだろう? 邪馬台国の女王・卑弥呼のことが記されている3世紀頃の中国の歴史書には、日本には馬や牛はいないと記されている。5世紀になって、渡来人とともに大陸から日本にやってきたと考えられており、まずは当時の政治の中心であった近畿地方に伝えられた。 群馬の地域は、この頃すでに全国でも屈指の有力地域だったので、近畿地方に馬が伝わってほどなく、5世紀後半に伝えられたと推測できる。 奈良・平安時代、群馬の地域はたくさんの馬を生産して中央政府へ献上するまでになる。 この地が国内屈指の馬の生産地となった決め手として以下の点が挙げられる。 群馬の地域では、古墳の副葬品に、轡や杏葉などの馬具がみられるようになることから、5世紀後半には群馬の地域に馬が普及していたと考えられる。 また、6世紀前半の榛名山の大噴火の際に降った軽石や火山灰に覆われた渋川市の白井地区にある遺跡からは、無数の馬のひづめ跡が発見され、ここでかなり大規模に馬が飼育されていたことがわかっている。 当時の馬は、移動・運搬手段、情報伝達や農耕の労働力として、大変重要かつ貴重なものだった。さらに、古墳時代の各地の首長にとって、馬は財力や富をアピールするために、是非とも手に入れたい特別な価値をもつ動物だったのだ。 古墳時代の群馬の地域には馬がたくさんいて、生産(馬の出産によって数を増やすこと)も盛んに行われた。 古墳時代の群馬の地域は、東国文化の中心地として繁栄を遂げたが、その原動力のひとつには「馬」の存在があったと言える。そして農業生産力の向上と、現代につながる交通の要衝の地であることなどにより、群馬が全国屈指の有力地域になっていった。くっ しくつわぎょうよう第2章 日本一の埴輪王国ぐんまを探検する24渡来系の技術者集団の存在▲ 古墳時代の馬の放牧跡(渋川市、白井北中道遺跡)しろ い きたなかみち い せきようしょう馬の埴輪が多数出土 !海を渡ってやってきた「馬」なぜ飼育が盛んになった?馬が特別な存在だった理由群馬だけに馬が多かった?7
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