2かと畦畦畝畝畝畝古墳時代の畠(はたけ) 群馬県内の平野部では、あちこちで非常に多くの水田跡が発見され、その数は700箇所以上に及んでいる。これは他の地域とは全く比較にならないほど多い。 群馬県で水田遺跡が多いのは、火山の噴火があったためだ。噴火によって広く大量に飛ばされた火山灰や軽石が水田の上に厚く積もってしまったので、農民は耕作をやめざるを得なかった。そしてしばらくして、その上に新しい水田を作り直した。そのため、古い水田の地面はそのまま埋もれ続けていったのだ。しかも、3世紀後半の浅間山の噴火は、群馬の地域に稲作が伝わってきた時期と、6世紀の榛名山の噴火は、さまざまな工夫をして用水や耕作地の開発が進み生産量が増えてきた時期とちょうど重なっている。 遺跡と発掘資料の豊富さから群馬県は水田遺跡研究では全国トップクラスと言われている。 6世紀頃の水田の区画は、今と違って畳1〜2枚分ほどのとても小さなものだった。稲を効率的に育て、生産力を高めるためにそのようなスタイルが取られたと考えられる。また、水田や畑が作られた範囲が大きく広がっていくのも古墳時代のことだ。渋川市の有馬条里遺跡では、6世紀初め(古墳時代後期)に起こった榛名山の大噴火にともなう火山灰で埋もれた畠だったところが、のちにふん かかみたきえのまちきたはん いあり ま じょう りはたけ水田に作り替えられていることがわかっている。台地の上の土地を水田に作り替えていくには、標高の高い上流から長く水路を引いてこなければならないため、特に高度な土木技術が必要だが、それが成し遂げられていた。 こうした作業を継続するためには、膨大な労働力が必要だ。古墳時代の群馬には、各地に豊かな経済力と技術力を兼ね備えた豪族のもとで、多くの人が養われていたと考えられる。 古墳時代の人口を示すような資料はまったく残っていないが、平安時代から戦国時代くらいまで、日本列島の人口はさほど大きな変動はなかったと考えられているので、古墳時代の人口は奈良時代よりはやや少なかったと推定できる。奈良時代の戸籍の一部が東大寺の正倉院に残っており、そこから類推すると8世紀の日本列島にはおよそ440〜450万人くらいの人々が住んでいたと考えられる。けいぞくごうぞくこ せきるい すいぼうだい(うね)▲ 有馬条里遺跡(渋川市)の断面▲ VRで再現した黒井峯遺跡の様子第3章 榛名山噴火関連遺跡を探検する古墳時代のムラ榛名山の軽石と泥流(あぜ)古墳時代の水田榛名山の火山灰と泥流▲ 水田遺構に水を満たした実験(高崎市、上滝榎町北遺跡)28古墳時代の人口は400万人?群馬は水田遺跡研究の先進地小区画の水田を大規模に開発新たな歴史を切り開いた群馬の水田遺構
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