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すごい!みたい!タイムカプセル6世紀4世紀Point1Point2Point3い でい でほ ど たほ ど たやく し づかふんきゅうたてあなしきまいそうい でふた ご やまはちまんづかほりふな がたせっかんせんじょうちすそうちぼりふながたせっかんP.65 C-2P.65 C-2う いずれも直径18mほどの円形で、まわりには葺石、頂部には埴輪列がめぐる。島ごとに違う種類の遺物が出土するため、それぞれが別の方法で、何らかのまつりを行ったという説が有力。ふたひつぎながもちがたごうぞくい ぶつふきいし【 保渡田八幡塚古墳全景(南東から) 】【 手前:二子山古墳、奥:八幡塚古墳 】所在地高崎市保渡田町・井出町関連施設ほ ど た こ ふん ぐん 高崎市保渡田町・井出町にある、5世紀後半〜6世紀初め(古墳時代中期〜後期初め)に造られた3基の大型前方後円墳からなる古墳群。もっとも南にあり、最初に築かれたのが全長108mの井出二子山古墳、次いでその北東にある全長96mの保渡田八幡塚古墳、最後にその北西に全長105mの保渡田薬師塚古墳が築かれた。(以下、3基とも町名は省略) 古墳時代中期に墳丘100m前後の古墳が近接して3基も築かれた例は、東日本では保渡田古墳群しか見当たらない。 3基とも広大な二重の堀をめぐらし、多数の埴輪を立て並べた竪穴式の埋葬施設で、舟形石棺が用いられていた。このうち二子山古墳と八幡塚古墳は、その内堀の中にある円形の施設(中島)が、他の古墳では例の少ない大きな特色になっている。八幡塚古墳では、多数の人物や動物の埴輪が出土した。 保渡田古墳群は榛名山の東南麓、高崎市の平野部の耕作地帯を見下ろすなだらかな扇状地の裾にあり、一帯を流れ下る井野川の水源地域である。この古墳群に葬られた豪族は、ヤマト王権と強く結びつき、朝鮮半島とも関係を持った。その中で得た先進技術により、水路を造って地域を開発したり、馬の生産を行ったりして、この地域を支配した西毛地域を代表する支配者であったと考えられている。 6世紀前半、榛名山二ツ岳が2度の大噴火を起こした際に流れ出た土石流がこの一帯を覆ってしまった。被害がよほど大きかったのか、以後この場所に大型の前方後円墳が造られることはなくなった。第4章 群馬の代表的な史跡 〜 繁栄した東国文化 〜39旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代5世紀MAPかみつけの里博物館MAP飛鳥時代7世紀奈良時代舟形石棺 身も蓋も大きな石をくり抜いて作った棺。船底のようにすぼまり、底部が平らになっている。首長クラスの長持形石棺に次ぐ階級の豪族に用いられたとされる。東日本では群馬の出土例が圧倒的に多い。4つの“中島”埴輪劇場 八幡塚古墳では、54体もの人物や動物の埴輪が密集して出土した区画がある。王(豪族)が行った儀礼や狩りの場面などを表していることがわかり、非常に珍しい「鵜飼い」の埴輪もあった。動画保渡田古墳群【国】11

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