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Point6世紀4世紀マメ90mのほぼ正方形の敷地は、幅30〜40m、深さ3〜4mの広大な濠で囲まれ、柵をめぐらせた内部から、大ごうぞくほりさくたてあなやかたいえがたほうむすい りごうぞく高崎市三ツ寺町・井出町MAPかみつけの里博物館MAPP.65 C-2P.65 C-2せきとい【 豪族の館復元模型(かみつけの里博物館) 】所在地関連施設【 発掘当時 】VR 保渡田古墳群のうち八幡塚古墳は、石室や葺石、埴輪、周堀などを細かく調査して「古墳が造られた時の姿」を正確に復元した全国でも珍しい古墳じゃ。あ、葺石とは、古墳表面を覆うキャベツぐらいの大きさの石のことじゃ。埴輪は6,000本も立っていて、中でも王などが行う儀式や狩猟の場面が再現されている様子は必見じゃぞ。古墳というと、みんなは森のように木がしげ繁っているイメージが強いじゃろうが、葺石で白く輝く墳丘を埴輪の列が赤く縁どっておる姿は、そりゃあ見事じゃ。 とにかく一度行って本物を見ると、古墳の本当のみ つ でら い  せき 保渡田古墳群(P.39参照)に近い高崎市三ツ寺町・井出町にある、5世紀後半(古墳時代中期)の全国で初めて古墳時代の豪族の館が発見された遺跡。1辺型の建物や竪穴住居、まつりの場などが見つかった。 それまで古墳時代の豪族の館は家形埴輪などから想像するだけだったが、三ツ寺I遺跡の発見によって、当時の豪族の館の構造や暮らしのようすが具体的に判明した。 近くにある保渡田古墳群は豪族の館と同じ時代のもので、保渡田古墳群に葬られた豪族が、生前、この地を治める拠点として館を使用したと考えられている。すごさ、威厳を肌で感じるぞ。古墳づくりは地域住民が喜んで参加するイベントのようなもので、決して強制的な重労働ではなかったという考えにも、実物を見ると説得力を感じるのう。 二子山古墳は、本当は八幡塚古墳と同じように葺石や埴輪で飾られていたんじゃが、あえて1,500年経った姿と見比べてもらうために、現在残っている姿をできるだけ変えないで整備したんじゃ。 薬師塚古墳は、当面は現状のまま残すそうじゃ。ほとんどが寺の境内となっており、後円部の頂上にはふながた舟形石棺が保存されておるぞ。  よいか。歴史遺産というものは、ただ整備して残せばよいというわけではない。大切なことは、君たちや未来の人たちがふるさとのすばらしさに気づき、それを受け継ぎながら、よりよい新たな歴史を作っていくことなんじゃ。頼むぞよ。第4章 群馬の代表的な史跡 〜 繁栄した東国文化 〜しゅうぼりしゅりょうおおふきいしい げん40旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代5世紀飛鳥時代7世紀奈良時代【 復元された古墳 】の巻水利を支配した豪族 石垣と堰を作って濠に水を貯めたり、橋と樋で導水したりしている。館内では水にまつわる祭事も行われたらしい。館の主は、井野川の水を支配することで豪族として力をもったのであろう。動画三ツ寺Ⅰ遺跡12

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