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ここななの長利という僧が母の供養のために建てた石碑で、完全な形で残るものでは日本最古の石碑だよ。多胡郡という新しい郡をつくった記念の石碑だよ。6世紀4世紀辛巳歳集月三日記佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児長利僧母為記定文也放光寺僧弁官符上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡和銅四年三月九日甲寅宣左中弁正五位下多治比真人太政官二品穂積親王左太臣正二位石上尊右太臣正二位藤原尊たごひかのとみのとしやまのうえひじん きかな い ざわ ひわ どうと らいじん高崎市吉井町池1095 ほかP.65 C-3MAP高崎市山名町2104P.65 D-3MAP〈 読み方 〉〈 現代語訳 〉高崎市山名町2334P.65 C-3MAP多胡碑記念館MAPたたごごぴぴーーP.65 C-3多胡碑多胡碑べんかんふ(おお)こうずけのくにかたおかのこおりみどののこおりかんらのこおりあわみつのこおりこおりわ どうきのえとらだいじょうかんに ほん ほ づみのみ こちょうていべんかんきょくひつじたまたごのこおりさちゅうべんしょうごいのげたじひのまひとさ だいじんしょうに いいそのかみのみこと681年10月3日に記す。佐野にあったヤマト政権が直接支配していた土地の最初の管理者である健守命の子孫の黒売刀自、この方が新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である大児臣と結婚して産んだ子どもである長利という名の僧が、母親のために書いた文である。 放光寺の僧かのとみのとしじゅうがつたけもりのみことくろめとじしたたみのすくねちょうりのほうしう だいじんしょう にいふじわらのみことさ ののみやけにいかわのおみおおごのおみとつたまほうこう じ【多胡碑】所在地【山上碑】所在地【金井沢碑】所在地関連施設こう ずけ さん ぴ 高崎市山名町にある「辛巳歳」(681年)銘の山上碑、神亀3年(726年)銘の金井沢碑、高崎市吉井町池にある和銅4年(711年)銘の多胡碑の3つの石碑を「上野三碑」と呼ぶ。平安時代より古い石碑は全国でも18例しか現存しておらず、3つの石碑が狭い範囲に集中しているのは非常に珍しい。 文字を使って石碑を建てる文化は、当時、朝鮮半島や中国大陸から伝わったものとされ、古代の群馬県には、渡来人から伝わった文化や技術が大きく関わったと考えられる。 それぞれの碑が建てられた目的や内容・性格は異なるが、仏教や文字の広がりと渡来人の動き、中央政府の支配体制を知る資料として共通点もある。 上野三碑はその価値を認められ、2017年(平成29年)10月にユネスコ「世界の記憶」に登録された。朝廷の弁官局から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の3郡から300戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。711年3月9日に命令が伝えられた。左中弁・正五位下多治比真人から送られた天皇の命令書である。 太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊【国】第4章 群馬の代表的な史跡 〜 繁栄した東国文化 〜56旧石器時代弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて多胡郡と成せ。和銅4年3月9日甲寅に宣る。左中弁・正五位下多治比真人。太政官・二品穂積親王、左太臣・正二位石上尊、右太臣・正二位藤原尊。縄文時代弥生時代古墳時代5世紀辛巳歳集月三日に記す。佐野三家を定め賜える健守命の孫の黒売刀自、此れ新川臣の児の斯多々弥足尼の孫の大児臣に娶ぎて生める児の長利僧が、母の為に記し定むる文也。 放光寺僧飛鳥時代7世紀奈良時代ややままぴぴーー〈 読み方 〉〈 現代語訳 〉山上碑山上碑動画上野三碑28

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