き ない地図帳で場所も確かめようっと!8世紀に中央(畿内)で、どんなことが起こっていたか、群馬と比べてみようヒント中央(畿内)では中央集権が進み、Point2Point1Point4Point3 上野國羣馬郡下賛郷高田里三家子□為七世父母現在父母現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加那刀自孫物部君午足次 刀自合六口又知識所結人三家毛人次知万呂鍛師礒部君身麻呂合三口如是知識結而天地誓願仕奉石文神亀三年丙寅二月二九日刀自次若てんぴょう 碑文の文字は、いくつかの異体字を除いて、現在も使用されているものばかりだ。1300年前の文字を現代人が読むことができるのは、世界でも珍しいことで、日本の文化が継続していることを示している。 山上碑と金井沢碑に刻まれる『三家』とは、かつて高崎市佐野地区周辺の天皇の領地(屯倉)や、これを管理した豪族のことである。山上碑を建てた “長利”以来、一族で厚く仏教を信仰したのであろう。みやけみやけごうぞくちょうりこうずけのくにくるまのこおりしもさぬごうたかだのさとはべいえとじおさだのきみめ づらとじひづめ と じわか ひづめ と じみやけのえみしち ま ろしこうじん きひのえとらかじし た じゅうとう 明治の初めに群馬県令(今の県知事)となった楫取素彦は、上野三碑など県内の文化財保護に取り組んだ。現在、私たちが史跡や文化財を見ることができるのは、楫取県令と、地域の人々の尽力のたまものといえるだろう。みやけしちせいか な と じち しきかぬちいそべのきみみまろせいがんつかたてまついしぶみすでかとりもとひこやまかみこもののべのきみうまたりはんえい給羊成多胡郡【 山上多重塔 】【 山上多重塔 】57ヒント漢字は現在と違うので、読み方をよく見よう。華やかな天平文化が花開いていたが…。【 楫取素彦 】金井沢碑金井沢碑考えてみよう!ひ ぶん上野三碑の碑文の中から、現在の地名を探してみよう今でも読める漢字サノノミヤケ(山上・金井沢)三碑を守ってきた人たち群馬の石碑…多さ 古代の石碑で、国内で現存するのはわずか18基。そのうち本県には上野三碑と、桐生市新里町の山上多重塔(801年)の4基もある。文章の知識や石に文字を刻む技術だけでなく、未来の人々に伝えようとする“意識”が進んでいたのだ。
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